最近思うんだけど

 私は、冗句が好きなんだけど、冗談ばっかり言ってると、世の中には、本気でバカにする人がいるんだなーって事がわかってきた。冗談は、バカにしない人と一緒に楽しまなキャ、もったいないな。バカにするとうな、人とは、付き合わない事が、一番だ。皆さんもそうしてください。あなたメッセージで自分をおとしめたり、攻撃してくる人とは、付き合う事はないんじゃないでしょうか?そんな人からは、執着する事なく、避難しましょう!!!
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by Swingmasa | 2016-01-04 18:31 | アイデンティティ

父のことー続き あれから

 あれから、だいぶたっだな。続きは、やはりNew Yorkにいるときぐらいしかかけない。

 それで、父なんだげど、今、だいぶ、体調悪くなってきた。いよいよ、残された時間が、最終ラウンドにはいってきたなという感じがする。
 どう?って体調のこと聞いたら、あんまりよくないな。。しんどい。体全体がだるいっていう。
 つらい。。。身体一生懸命さする。足裏マッサージする。思いつくあらゆることを、毎日少しずつ時間をつくって、病院に通う毎日になってきた。
 今、一週間だけ、New Yorkにかえってきた。でも、父のことを思うときがきではない。早く飛んで帰りたい!ずーっと側にいたい。そして、おもいきり看病したい。

 どこまで書いたか、、、、、そうそう、両親が、New Yorkの私に会いに来るとこまでは、書いたかな。あれ何年まえになるのかな。もう、十何年も前のことになる。懐かしいな。。。
 初めて、両親が二人で、パスポートとって、New Yorkの私に会いに来た。友達へのお土産もいっぱい持って。
 二人がついたのは、 だーいぶ前だったが、私が、二人がどこについたのか見つけられず、二人は、町くだびれ、疲れはてていた。サンフランシスコで乗り換えて、国内線になっていたのを、私が、気づかずに、国際線ばかり探していたから、見つけられなかった。
 でも、二人は、私に見つけられるまで、ずーっとそこを動かず、何時間も何時間も待ってくれていた。英語もしゃべれないし、そうするしかなかったようだ。
 かわいそうなことをしたが、再会は、わたしに対する、父の怒りから始まったが、何故か、直ぐにおさまった。
 この両親が私に会いに来てくれた事件を境に私たちの関係は、大きく変わっていった。

 この事は、人にも話した事があるが、ずーっと受けていたカウンセラーを囲んで、家族カウンセリングを受けたのが、大きかった。3週間いた滞在期間中3回行った。最初の2回は、母と二人で。3回目にやっと父と一緒に3人で受ける事ができた。
 この3回目のカウンセリングが、あって本当に良かった。3回目は、お父さんに喋ってもらいましょうとカウンセラーが話をふり、父は、口を開いた。
 父はずっと、カウンセリングに行くと自分が責められるんじゃないかと思い込んでいたようだ。けれど、それは、全然違う。父の勝手な思い込み。
 口を開いた父の話は、お爺ちゃんとの舅と婿の話だった。本当にかなりのストレスだったようで、父は、私の生まれる前に一度、父の実家に帰った事があるようだ!!!そんな、話、その時まで全然知らんかった。その時、帰ったきりかえって来なかったら、私は、生まれてなかった。一番上の、ネーチャンだけか。。。。。そいでもって、田舎のお爺ちゃんとおばあちゃんとこから、離れ、都会の新世界あたり、つまり、父の生まれ故郷で、やり直ししたらしい。
 この話に、私は、びっくりたまげた。
 二番目のネーちゃんは、大阪市内育ちか。。。
そして、じーさん、ばーさんが歳いって畑でけへんようになったので、また、田舎に戻り、私が産まれたみたい。
 でも、おじーちゃんとの関係は良くなるわけでもなく、また、ストレスの日々が始まったらしいが、一緒に共同作業で野良仕事する事なくなったらしいので、前よりましだったのかな。。。
 だけど、私の小さいころ、父は、いつも、胃潰瘍を患っていて、入退院を繰り返していたので、多分身体に来るぐらい関係まずかったと思う。
 今だから、分かる事なんだけど、お爺ちゃんが、死んでから、お父さんの胃潰瘍は、ピタッと治った。
 私は、お爺ちゃんとお父さんが、仲悪そうにしてたら、いつもお爺ちゃんについていた。
 訳の分かってない子供なのになんで、お爺ちゃんだったんだろう?お爺ちゃんの方が、正しい感じがした。これってなんだろう?いや、子供ながら、お父さんが、子供に見えた。
 それと、なんか、ヘラヘラして、人を笑かす冗談ばっかりいって、どっかで、子供ながらにこの人をバカにしていたと思う。
 ところが、この家族カウンセリング受けて分かった事だが、家の中で、決定権もない父ができる事は、3枚目になって周りを笑かす事しか出来なかったようだ。
 そういう父を、本気でバカにするなんて、なんて失礼な子だったんだろう。
 私が、ダジャレとか好きなのも、父譲りかもしれない。落語とか聞くの好きだったし。

それから、私は、父という人の見方がガラーッと180度変わった。
なんて、辛抱強い人なんだろうって。うちの両親は、二人とも本当に辛抱強い人たちだ。そこの部分は、凄く尊敬している。
 つい最近までは、会いに行くたびに、満面の笑みを浮かべて、私を迎えてくれる父だった。私は、その父の笑顔を見るたびに、ほんわかした気持ちになり、救われた。
 でも今は、その父にあの笑顔がなかなか戻らない。しんどいんだ。体調悪いんだ。
 父は、自分でも、とても、健康に気を使う人で、今まで、3回癌の宣告を受け、2回手術した、そしてその度に、玄米のおかゆを自分で炊き、黒豆や、ひじきを入れて、自然食療法で読んだ食事療法をやっていた。家の中で、ひとり、自分で自分の食べる分をつくって食べていた。他の人の分もつくって。なんと、フェミニストなことか。
 私は、少しも偉そうにする事がなかった、父を尊敬している。この人の娘に生まれてきてよかったなって、心から思う。
 どうか、1日でも、長生きしてほしい。残された父との時間ー大事にするぞー!!!!!!
 
 
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by Swingmasa | 2016-01-04 18:14 | アイデンティティ

父のことー続き あれから

 あれから、だいぶたっだな。続きは、やはりNew Yorkにいるときぐらいしかかけない。

 それで、父なんだげど、今、だいぶ、体調悪くなってきた。いよいよ、残された時間が、最終ラウンドにはいってきたなという感じがする。
 どう?って体調のこと聞いたら、あんまりよくないな。。しんどい。体全体がだるいっていう。
 つらい。。。身体一生懸命さする。足裏マッサージする。思いつくあらゆることを、毎日少しずつ時間をつくって、病院に通う毎日になってきた。
 今、一週間だけ、New Yorkにかえってきた。でも、父のことを思うときがきではない。早く飛んで帰りたい!ずーっと側にいたい。そして、おもいきり看病したい。

 どこまで書いたか、、、、、そうそう、両親が、New Yorkの私に会いに来るとこまでは、書いたかな。あれ何年まえになるのかな。もう、十何年も前のことになる。懐かしいな。。。
 初めて、両親が二人で、パスポートとって、New Yorkの私に会いに来た。友達へのお土産もいっぱい持って。
 二人がついたのは、 だーいぶ前だったが、私が、二人がどこについたのか見つけられず、二人は、待ちくだびれ、疲れはてていた。サンフランシスコで乗り換えて、国内線になっていたのを、私が、気づかずに、国際線ばかり探していたから、見つけられなかった。
 でも、二人は、私に見つけられるまで、ずーっとそこを動かず、何時間も何時間も待ってくれていた。英語もしゃべれないし、そうするしかなかったようだ。
 かわいそうなことをしたが、再会は、わたしに対する、父の怒りから始まったが、何故か、直ぐにおさまった。
 この両親が私に会いに来てくれた事件を境に私たちの関係は、大きく変わっていった。

 この事は、人にも話した事があるが、ずーっと受けていたカウンセラーを囲んで、家族カウンセリングを受けたのが、大きかった。3週間いた滞在期間中3回行った。最初の2回は、母と二人で。3回目にやっと父と一緒に3人で受ける事ができた。
 この3回目のカウンセリングが、あって本当に良かった。3回目は、お父さんに喋ってもらいましょうとカウンセラーが話をふり、父は、口を開いた。
 父はずっと、カウンセリングに行くと自分が責められるんじゃないかと思い込んでいたようだ。けれど、それは、全然違う。父の勝手な思い込み。
 口を開いた父の話は、お爺ちゃんとの舅と婿の話だった。本当にかなりのストレスだったようで、父は、私の生まれる前に一度、父の実家に帰った事があるようだ!!!そんな、話、その時まで全然知らんかった。その時、帰ったきりかえって来なかったら、私は、生まれてなかった。一番上の、ネーチャンだけか。。。。。そいでもって、田舎のお爺ちゃんとおばあちゃんとこから、離れ、都会の新世界あたり、つまり、父の生まれ故郷で、やり直ししたらしい。
 この話に、私は、びっくりたまげた。
 二番目のネーちゃんは、大阪市内育ちか。。。
そして、じーさん、ばーさんが歳いって畑でけへんようになったので、また、田舎に戻り、私が産まれたみたい。
 でも、おじーちゃんとの関係は良くなるわけでもなく、また、ストレスの日々が始まったらしいが、一緒に共同作業で野良仕事する事なくなったらしいので、前よりましだったのかな。。。
 だけど、私の小さいころ、父は、いつも、胃潰瘍を患っていて、入退院を繰り返していたので、多分身体に来るぐらい関係まずかったと思う。
 今だから、分かる事なんだけど、お爺ちゃんが、死んでから、お父さんの胃潰瘍は、ピタッと治った。
 私は、お爺ちゃんとお父さんが、仲悪そうにしてたら、いつもお爺ちゃんについていた。
 訳の分かってない子供なのになんで、お爺ちゃんだったんだろう?お爺ちゃんの方が、正しい感じがした。これってなんだろう?いや、子供ながら、お父さんが、子供に見えた。
 それと、なんか、ヘラヘラして、人を笑かす冗談ばっかりいって、どっかで、子供ながらにこの人をバカにしていたと思う。
 ところが、この家族カウンセリング受けて分かった事だが、家の中で、決定権もない父ができる事は、3枚目になって周りを笑かす事しか出来なかったようだ。
 そういう父を、本気でバカにするなんて、なんて失礼な子だったんだろう。
 私が、ダジャレとか好きなのも、父譲りかもしれない。落語とか聞くの好きだったし。

それから、私は、父という人の見方がガラーッと180度変わった。
なんて、辛抱強い人なんだろうって。うちの両親は、二人とも本当に辛抱強い人たちだ。そこの部分は、凄く尊敬している。
 つい最近までは、会いに行くたびに、満面の笑みを浮かべて、私を迎えてくれる父だった。私は、その父の笑顔を見るたびに、ほんわかした気持ちになり、救われた。
 でも今は、その父にあの笑顔がなかなか戻らない。しんどいんだ。体調悪いんだ。
 父は、自分でも、とても、健康に気を使う人で、今まで、3回癌の宣告を受け、2回手術した、そしてその度に、玄米のおかゆを自分で炊き、黒豆や、ひじきを入れて、自然食療法で読んだ食事療法をやっていた。家の中で、ひとり、自分で自分の食べる分をつくって食べていた。他の人の分もつくって。なんと、フェミニストなことか。
 私は、少しも偉そうにする事がなかった、父を尊敬している。この人の娘に生まれてきてよかったなって、心から思う。
 どうか、1日でも、長生きしてほしい。残された父との時間ー大事にするぞー!!!!!!
 
 
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by Swingmasa | 2016-01-04 18:14 | アイデンティティ

face book や twitterが出来てから

 face book や twitter の使い勝手の良さから、どんどんこのブログからは、離れてきた。同時に、自分のHPに至っては、何年間もとまったまま。更新はしてない。基本的の事さえ書いてたら、そんなに、更新つったってスケジュールぐらいだし、それも、face bookの方が、使い勝手がよい。
 で、どんどん立ち寄る事が、なくなった。ここに、来なくなると長い文章を書かなくなる傾向がある気がしてきた。短く、簡単明瞭にって、常にツイート感覚。これって、発達障害の人にもわかりやすくていいかもしれない。
 今、New Yorkにいる。
 以前、私が育った、家族についてアイデンティティーとして、書いた事があったが、それを今回、更に勧めていきたい。
 やはり、父の事をしっかり書いておきたいと思った。9月4日に日本を出てきて、その際、最後に「チョットNew Yorkいってくるよ』っていいにあいにいったのだが、実家には、父も母もおらず、一目会いたかったのに、会えずに来たから、なおさら、父への思いはつのる。
 今、92歳かな?多分。 私が、この世の中で、一番愛している男性で、そりゃーもう、コルトレーンより、好きです!って、はっきり、いえる。
 そして、そんな風に感じれるまで、長生きしてくれてる父に感謝する。

でも、長い間、冷戦時代があった。
だいだい、父という人は、私の夢にいちゃもんつけるためにいる人かなとずーっと思ってた。
コミュニケーションは成立しない、会話は、喧嘩。こういう事を繰り返していると、次第に誰でもそうでしょ。離れていく。
 今、私は、自身のひきこもり癖と向き合い、ひきこもり問題に取り組んでいるが、当時私は、自分の家に、自分の居場所を見つける事が出来なかった。
 家の中ほど、しんどい場所はなかった。しかし、学校なんて、面白いもんでもなく、悩みを打ちあける友もなく、中学時代はひたすらサックスばっかり吹いていた。
 ちょうど、その頃かなぁ。小学校6年の時に、一番上の姉が嫁いで行った。それはそれは、絢爛豪華な嫁入り道具をしつらえて、持って行きやった。あの時、うちの家破産するん違うやろかと心配で心配でしかたなかった。一番上の姉もトコトン親に金遣わすセテロ女やな!そして、この豪華な、嫁入り道具は、私の番には絶対与えられないと私は読んだ。
 あの嫁入り関連のイベントほんまにめいわくやったな〜。猫チャンは、蔵に押し込められるし。かわいそやった。はよ終わったらいいのに、とどんなけ屈辱的だったか、思い出すのも嫌気がさす。
 それから、中学校になり、吹奏楽部に入ってサックスに出会い、ぼっとうし、面白くないが、サックスだけは、おもしろかった時代があり。高校か。
 二番目の姉が結婚したのは、何年だったんだろう?
 多分そのあたり、今度は、姉婿ある人が、家族の中に入ってきた。
 この人に関しては、家族全員、揚げ殿末殿、とにかく祭り上げ、何故か、この人の食卓の席は、父を差し押さえて、上座だった。
 やっと、父が登場してきた。なんで、父は、この娘婿に自分の席を譲ってまで大事にこの人をしたかというと、自分が婿養子で辛い思いをしてきたかららしい。そんなことは、この時の私には、まだわからなかった。
 私は、父のことを人間的には、何も尊敬していなかった。
 いつも、冗談ばっかり言って、人を笑かして、この人の頭の中には、そんなことくらいしかないのかなとおもっていた。

 小学校何年生の頃だったろう。あれは、3年か、4年ぐらいか。父は、大きな失敗をしたことがる。
 その大きさは、大人になってから、わかったのだが、ある父の土地にマンションを建てることを計画し、大杉建設ってところに委託した。子供ながらに覚えている。ところが、うちのマンションの建設途中で大杉建設が倒産してしまい、父が支払った費用が全て水の泡になった。父が悪いわけじゃないんだけど、父と母は、この自体をなんとかせねばならなかった。私は、この時、一緒に連れて行ってもらい、母と一緒に、屋上の給水タンクもっていかれないか、工事現場でとまってみはるというのを、親子3人でやり、アドベンチャーファミリーみたいやなーとかんじながら、めーっちゃ楽しんだ。

 父のことを書こうとしているのに、ついつい、父の事が後ろに回ってくる。
 私の父とは、そんな人なのだ。とっても控えめな男で、謙虚のかたまりだ。

父の若かった頃、、、父はどんな風にして育ったのだろうか?
うちの両親は、いとこ同士だ。父は、父の母の実家に、婿養子としてもらわれていった感じだ。
だから、お盆の墓参りの時、いつも実家にきていて、母も知ってただろう。
私は、知らない、曾おじいさんに、みかん山とか連れていってもらったりしてたみたいだ。
だけど、父の母は、病気がちで、結構寝込んでいる事が多い人だったらしい。
逆に、男の子は父を入れて3人、父はその中の2番目。父のお父さんは、よく子供たちを叱りつけてたみたいで、今でいう、DV夫だったんじゃないかな。多分、昔の事だし、父の母がいつも調子悪かったのは、夫の暴力が原因だったのではないかと思う。
 そういう意味では、私のお父さんは、十分な愛情を得て育ったわけじゃないのだなと可哀相に思う。

そして、青春時代は、戦争。満州か帰還した。父は、衛生兵だった。戦争の話はいつも聞かされて育った。
 私には、耳にタコだが、戦争の話は、とても重要で、父の話は生き証人の話だ。
 戦争の話になると、いつも、昨日の事のように蘇ってくるようだ。
何回もしてくれた話で、現地で、中国人の子供の傷口を消毒して手当てしてあげてたのかな。その子供が、自分に、お礼にと豆持ってきてくれて、その子に感動して泣いてたらしい。自分が食っていくのも大変な戦場のそんな中で、自分にお礼と言って持ってきてくれたって。中国人って心が温かいと感じたらしい。
 あと、現地の女性を犯した事あるかみたいな、単刀直入に聞いた事があったが、あ、この人は、そういう事が、出来ない人だというのが、よくわかった。つまり、お母ちゃんと結婚してからはうちのうちのお母ちゃんだけっていうか、絵で書いたような結婚感の人だ。
 まあ、どっちにしろ、私の生まれる前の話。お父さんは、新世界で育ったんだよ! 新世界のSwing MASA Jazz Houseがなんであるかって、実家は、喜志だけど、育ちは、新世界。恵美小学校出身、今宮中学校出身なんです。
 お父さんの人生を書くのは、長いな。もっっと書きたい事がある。けど、今日は、これで、寝る。
 そんな父に、電話して、New Yorkにきてみいひんかって電話した事があった。
 いつも、おかーちゃんに変わるから、いやいや、お父さんに言ってるのよ。New Yorkにきーひん?

それから、父は、一週間で、パスポートを手配し、二週間目にはNY行きのチケットを購入していた。この時も、まだまだ、私と父の会話はうまくいってなかった。。。。
だけど、父は、New Yorkにずっーと長い間私に呼ばれるのを待っていたかのように、すぐに飛んできたのだ。

つづく
 
 
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by Swingmasa | 2015-09-09 15:21 | アイデンティティ

アイデンティティ 2 おじいちゃんの思い出

 おじいちゃんは、自分の子供や孫に囲まれ大往生して死んで行ったひとだった.
 私とおじいちゃんは、歳が80歳違ってた.
 私は、おばあちゃんと同じくおじいちゃんが大好きだった. おじいちゃんは、どこへいくにも私を一緒に連れて行ってくれたらしい.特に、おじいちゃんは、鍼灸マッサージが大好きで、その鍼灸治療によく付いていったという.
 その行く途中のことー富田林の堺筋を上がっていくと、まんじゅう屋さんがあり.私は、条件反射のようにいつも、そのまんじゅう屋さんの前で、立ち止まり、お気に入りのまんじゅうをおじいちゃんに買ってもらうまで動かなかったらしい.
 そんな事は少しも覚えていないのだけれど、何となく、金剛バスの、あの子供には大きい出入り口の階段を、よいしょと降りた時の体の振動みたいなものは、かろうじて覚えている. その後、おじいちゃんは、必ず、その振動で飛び出した脱稿をお尻の穴に入れなおし歩くのだが、その格好までまねていたらしい.これは、少し覚えているような気がする. でも、小さかったから、「脱稿がでる」なんて事がわかっていたわけではない.
 今、その道のりをたどると、結構長い道のりなのにおじいちゃんとどんなふうにして行ったのか、さっぱり覚えていない.しかも、おじいちゃんが治療してもらってる間、私は何をしていたんだろう?それも、記憶にない.ひょっとして、もう一人だれかいたのかな?おばあちゃん?
 小さい頃、交通事故にあって、激しく頭を打ちそれの前後の記憶が飛んでいる.
 野良仕事の荷を積んでいた家族のそばで歌を歌いながら、踊っていたように思う.道端で.次の週間から記憶がなく、今度気がついたら、病院のベッドで横になっていた. ネーチャンは、私が気を失っていたので、死んだと思って泣いてたらしい.
 私が物心ついてからの殆ど、おばあちゃんは、寝たきりで歩けなくなっていたので、この私が交通事故にあった時も、おばあちゃんは、寝床で私のことを心配してくれていたんだなあと思う.そういえば、おばあちゃんの寝床でよく添い寝させてもらった.
私が、保育園のときとか、小学校の時とか、いつも、帰ってきたら、おじちゃんとおばあちゃんがいてくれた.それが小学校3年でおばあちゃんが死んでしまい、おじいちゃん一人になった.
 おばあちゃんが死んでから、おじいちゃんは、めっきり元気がなくなった.
 私は、おばあちゃんのときにした後悔をニ度としたくない思い、おじいちゃんには、おばあちゃんの分まで、本当に精神誠意心残りなく言う事を聞くようにした.頼まれごとも何でも聞くようにした.
 あるとき、おじいちゃんが、舌をまっかに腫らしていたので、液体の甘い付ける薬を買ってきたら、とても喜んでもらえて、おばあちゃんにもこんなふうにしてあげればよかったのにと、また思い出したことがあった.その薬は良く効いた.思いつく事をやっていてよかった.
 もちろん、いわゆる介助、排泄の世話もした.これは、おばあちゃんの時もしていたので何と言うことはなかった.おじいちゃんは、自分で、小便も大便も本当に弱るまでしていた. 弱ってからも、ベッドの横に簡易便器をおいて、自分でやっていた. 痔持ちで、脱稿が、お尻の穴から、真っ赤に出ているのが痛そうで、かわいそうだった. 座薬を入れてあげるのが、大便をした時のおきまりだった.
 あるとき、しっかりしていたおじいちゃんが、何を思ったか、家に吊るしてある、鐘を叩くという騒動があった. これは、何のための鐘か知らないし、家にこの鐘が何故かあるのかというのも知らなかった. 認知症はでていなかったが、このときだけは、おじいちゃんの行動が理解できなかった.おじいちゃんが、この鐘を何故叩きたいと思ったのか、この鐘はそもそも、なんで家にあるのか、未だにわからない.
 それと、もうひとつ、変な事をいいだすなあと思ったことがあった.縁の下に昔焼酎漬けにした、まむしがあると言うのだ.それをとりだして、かゆいところに塗りたいと言い出した.そんなもの本当にあるのか、土間の下なんで何十年もみてなかった. 厄介だなあと思いがら、土間の下開けることになった. やはり、おじいちゃんの記憶は正しく、何十年付けてあったのか知らないが、まむしの焼酎漬けが出てきた. そして、それを塗ってみたが、聞いたのかどうか、わからない.
  とにかく、おじいちゃんは、お父さんと正反対で、漢方、薬草、民間療法が好きで、それに詳しい人だった.
 私が、そういうのにすごく興味をもっているのは、ひょっとしたら、おじいちゃんの血を引いているのかもしれない.
 健康にはとっても気を使っていた人で、いつも、寝床に食事を持っていくのだが、腹8分めがいいといって、お粥お茶碗に一杯だけで、後は漬け物か、金山時ミソ、もしくは梅干し、ときどきたいた野菜かお豆腐といった、本当に粗食だった.
 おじいちゃんは白粥を食べていたが、私も母も茶粥が大好きで、何がおいしいって、茶粥と漬け物がこの世の中で一番美味しいものだと感じている(余談).
 おじいちゃんの事で覚えている事は、日露戦争で、足を負傷し、左足の膝したのあたりが極端に細くなって、鉄砲の玉をくらった痕があったことだ.
それと、家の大黒柱によく背中をくっつけてゴリゴリやっていた.いつも、質素倹約の人で、贅沢をしているところを見た事がない.コツコツ生きる人だったんだろう.
 そんな、おじいちゃんとおばあちゃんたち、テレビがあるわけでないし、子供らの成長だけが楽しみだった時代に、最愛の息子を奪った戦争という奴を 許してはならない. 
 家は農家だったけれど、おじいちゃんもおばあちゃんも、密柑山で見たのを覚えていない.多分、一緒に行ってたんだろうが、あまりに小さくてほとんど覚えていないんだろう.
 もう今は、耕地整理で無くなってしまったが、私は、うちの密柑山の景色大が好きだった.とても美しかった.池もあった.今でもよく覚えている.私の大事な故郷の景色だ.一寸、時代劇のロケに使えそうないい感じのうつくしい風景だった.
 が、あるとき、田舎に帰ったら、耕地整理とやらで、一挙に山ごとごっそり無くなっていた. もう何処を探してもあの景色は、私の記憶の中にしかなくなってしまったのだ. アイデンティティというのは、失った記憶のかけらを拾い集め、つなげて浮かび上がってくるものなのかもしれない.
 私が、おじいちゃんとお父さんが一緒に働いているとこを見た事がないのは、父と馬が合わないので、もう全部父に預けて、自分は隠居してたのかもしれない.
 私が生まれた時ですら、おじいちゃんは、もう80才だったのだから、隠居しててもおかしくはないが、今、私の父は89才で、バリバリ、現役で農業やっている.
 ただ、当時の父は、胃潰瘍を悪化させていて、血を吐き、入退院を繰り返してしたのをしっかり覚えている.
 あるとき、父が病院から外出で帰ってきた時、まだ、退院できないので、母が泣いて、「どうして食っていったらいいんや」というような事を、夕飯の後かたずけで、雑巾で床の間をふいているとき、その床の間に雑巾を叩き付けて、泣きながら、訴えていたのを覚えている.当時は、テーブルではなく、床の間で、お膳で食べてたので、食事が終わったら、必ず、床の間も拭いていた.多分私とかが、食べ散らかしていたんだろうな.小さい時はわからなかったが、お父さんは、本当に居ずらかったろうなと思う.
 今から思うと、最もなのだが、胃潰瘍は、神経が弱ってくるもので、父も気の毒だった.誰が悪いわけでもないが、やはり、舅と婿がいっしょに暮らすのは、精神衛生に良くなかったろう.
 おじいちゃんは、おばあちゃんが死んでから、3年後に後を追うように死んでいった.  私が、小学校の6年の時だった.
 その年は、3月におじいちゃんが死んで、10月に一番上の姉が、嫁いでいったので、家はなんだか急に寂しくなった.昔は総勢10人でわいわいがやがやしていたのに、4人の核家族になってしまったのだ.10年程の間に少しずつ人が減っていった. 家の中はガラーンして、くらーい雰囲気になっていった.
 私は、おじいちゃんが、死んだときのことをよく覚えている.
 診察にきていた医師が、もう危ないので、親しい人を呼んでおいてと言われ、お母ちゃんは、ついにきたかと覚悟してたかのごとく、おばちゃんらに電話をかけて呼び集めた.
 おじいちゃんの長女、田辺(清子さん)のおばちゃんが、大阪市内から、タクシーを飛ばして帰ってきた.
 そして、玄関から入ってくるなし、わーと泣き出した.そしたら、山田(愛子さん、次女)のおばちゃんが、「まだや」といった. (後日この話はいつも笑い話になる)
 おばあちゃんのときは、眠るようにいつ息が絶えたかわからないような死に方だったが、おじいちゃんは、最後まで意識はしっかりしていた.まるで、映画でもみているような、美しい最後だった.
 家族全員を集め、最後の全力を振り絞って、私たち一人一人、抱いて、一言ずつ言ってくれた.本当に、みーんなを平等に抱き寄せて、一言ずつ言ってくれたのだった.
 一番最初に、おとうさん、「あと頼んだぞ」と言った.馬の合わなかったお父さんだが、このときばかりは、死を前にしたおじいちゃんに、とても素直な感じだった. 
 私は、何と言われたのか、それが覚えてない.多分、みんなの言う事良く効いていい子になるんやぞってな事だったと思う.ただ、はっきり、忘れる事なく、私の名前をちゃんと呼んでくれて、抱き寄せてくれたということだけで充分だった.
 そして、これが、本当に最後の別れだということがはっきりわかった.
 そこにいたみーんな、一人一人にそうしてくれた.
 そして、おじいちゃんは、最後に大きな息をひとつして、自分の人生を終わった. 
 最後の一息まで私たちにみせてくれたのだ.
 こんな見事な死に方は、ドラマでもあんまり見た事がなく、今でもおじいちゃんを大変尊敬している.とても凛々しい、最後の最後まで、本当に立派な人だった.
 享年92才.大往生だった.長生きして,世の中がこんなに変わると思わんかったって。しんどい事もいっぱいあったろうけど,最後はしあわせだったと思う。自分を納得させられる人生だったんじゃないかな。私も,自分で自分を納得させられるようになるために,今を精一杯生きる。


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by swingmasa | 2010-11-02 20:39 | アイデンティティ

私のアイデンティティ 1/やさしかったおばあちゃん

 

いつごろだったのか、私が『私』という人を意識し始めたのは.
 私が物心ついた時から、私の側には、いつもおばあちゃんとおじいちゃんがいた.絵で描いたような、それこそ、昔あるところにお爺さんとお婆さんがいましたという日本昔話にでてくるような二人だった.農家だったという事もあったが.現代のきれなしゃれた格好の老夫婦ではなくて、昔のつぎはぎだれけのもんべはいた白髪の長めの髪を後ろでひとつにくくったお婆さんと、短くかりあげた頭に、股引姿のお爺さんだ.
 私はこの二人に甘えれるだけ甘えさせてもらったように記憶している.
 父に関する幼い頃の記憶はほとんど無い.あんまり、遊んでもらえなかったのかなあと思うが、昔の写真にしっかり父にだっこされてるのがあるから、無視されてたわけじゃないかもしれない.
 でも、ひょっとしたら、私が、おじちゃん、おばあちゃんッ子だったので、私の方が父を無視していたかもしれない.
 私は、その大好きだったおばあちゃんに今でも後悔して、自責の念に耐えられなくなってしまう思い出がひとつあった.
 それは、いつごろからか、おばあちゃんが中風になって、歩けなくなり、寝たきりになってからの事だった.私は、小学校に行ってたのかな?はっきり覚えていない.が、動けないおばあちゃんに、ひとつ用事を頼まれるごとに50円でするという約束をさせて、ちゃかり付けておき、3000円ぐらいになった時、請求した.そしたら、おばあちゃんが泣きだしたのだ.結局もらえたかどうかはおぼえていないが.とても理不尽なことをする『私』だった.自分でも、自分のしたことの浅ましさにゾゾーットして、身震いがする.本当になんて事をしたんだろう!
 それから、おばあちゃんは、よく泣く人になっていった、そして、自分でおトイレも、起き上がることもできなくなっていった.そんなねたきりの生活を10年しておばあちゃんは死んでいった.
 何で、おばあちゃんの苦痛を思いやれなかったんだろう.
 『おばあちゃん、ごめん!おばあちゃんの言う事何でもきくからどうか許して!』と心の中で叫んでも、おばあちゃんに届いているのか、もういないからわからない.許してもらえるような事ではないと思うが.
 私はよく墓参りに行くが、それは、おばあちゃんに謝りたいという気持ちがあるからだ.

 おばあちゃんが、動けなくなってからも、うちの家ではいろんなことがあった.

 おじいちゃんと、父はどうしても仲良くできないみたいで、最悪だった.よく喧嘩をしていたのを覚えている.祖父と父の関係は叔父と甥の関係だ.父は父の母の実家に養子に入る格好で、母と結婚して、私たちが生まれた.
 しかし、父は私の尊敬する大好きなおじいちゃんが大嫌いで、なんか私ともはぎくしゃくしていたんだろうか?
 私がおじいちゃんとおばあちゃんが大好きだったから憎たらしかったのかな?
 しかし、それ以前に私は、父という人を認めていなかった.なんてかわいそうな父.
 今思うと、子供って残酷だなぁと思う.というより、『私』という人間が残酷なところを持った人なのかもしれない.
 あるとき、母が交通事故にあって入院したことがあった.母はセミトラックとを運転していて、後ろから来た普通車に曲がろうとするところをはねとばされたという事故だった.
 私が小学校から帰ってくる途中にその事故現場があり、近所の人が知らせてくれた.私はびっくりしてあわてておじいちゃんとおばあちゃんに伝えに走って帰った.
 あの時のおじいちゃんとおばあちゃんのビックリした顔は、今でも覚えている.心配そうにしていたが、車を運転できるわけでもなく、ただ、ただ心配するしか無かった.そのうち父が帰ってきて又、一発おじいちゃんと喧嘩した.
 母の様子がどうなのか、おじいちゃんは心配で心配でたまらなかったのだが、父の物言いに腹を立てて怒りだした.父がなんていったか覚えていないが、なんか喧嘩売るようないい方だったのは覚えている.が、おじいちゃんもしっかり父の喧嘩を買う人だから、この二人の組み合わせは、火に油を注ぐがごとくすぐに火がついてやりやいになる.
 そして、父がぷいとどこかに行ってしまう.いったいどこに行ってたんだろう?父の実家は、車で15分程のところだから、帰ってたのかな?
 特におじいちゃんは、父の事を小さい頃から妹の子供として知っていたから、気が知れた中だと自分の実の息子のように信じきっていたようだ.喧嘩になったら、おばあちゃんが、いつもおじいちゃんを諌めるが、おじいちゃんはおばあちゃんに諌められるとそれがまたむかつくようだった.しかし、おばあちゃんは、本気で心から心配していて、父がもう帰ってこなくなったらどうしようといつも気をもんでいた.
 『私』は、そんな中で育った.
 大人になってから聞いた話しだが、実際、父が一度荷物をまとめて実家に帰った事があったらしい.『こんなにうまのあわん舅と一生暮らすのはご免だ』と思ったらしい.もう、一番上の姉が生まれていた頃だった.私は3人姉妹の末っ子で、この後、父と母がよりを戻してくれてなかったら、『私』という人は生まれてなかった.
 どんなふうにして二人がよりを戻したかは、またいつか書くことにして、とにかくこの後も相変わらず、父は私の大好きなおじいちゃんと、ぎくしゃくしながら、いっしょに暮していた.
 おばあちゃんが歩いていた頃の事を殆ど覚えていない、しかし、おばあちゃんが、尻餅をつくようなこけ方をして、その日をさかいに、おばあちゃんが寝たきりになっていったのをよく覚えている.
 みんなで家の庭にいたときだった.何故か、全員そろってた.家族で写真でも取ろうとしていたのだろうか.そんな中での出来事だった.ちょっと座ったようなこけ方で、そんなに強くこけたわけではなかった.が、それから、おばあちゃんは自力で立ち上がれなくなった.何でも後日調べてみたら、骨が折れてたらしい.
 今、母が、だんだん私の好きだったおばあちゃんに似てきている.
 おばあちゃんにもっともっと優しく親切にしてあげれば良かったなぁ.今でもそのことを思い出し後悔する.
 いや、実際は、その用事1回50円事件に気がついて後悔してからは、私としてはおばあちゃんに出来る限りの事をしたつもりだった.がしかし、私のした50円事件は卑劣で血も涙も無い事で、本当に人間として罪深い事だ.自分の心の中に強い後悔の念として、それがずーっと今でも残っている.
 悪かったとわかってからは、おばあちゃんの排泄の世話など、いろいろ穴埋めするように介助をしてみた.
 しかし、一番取り返しがつかないなあと思うのは、おばあちゃんを泣かしてしまい、その後私が『おばあちゃん、ごめん』と謝ってなかった事だ.謝るという事をそのとき思いつかなかった.というか知らなかった.人が謝ってるのは見たことがあったが、自分がそれをおばあちゃんにするというのをした事が無かった.
 多分、『私』はおばあちゃんとおじいちゃんに溺愛され、なんでも許してもらってて、私が謝るという事をせずに許されて育ってきたのではないかと思う.
 それから、私の大好きなおばあちゃんは、小学校3年のときに亡くなってしまった.
 生まれて初めて体験した大きな深く悲しい出来事だった.
 それまでは、人が死ぬという事がどういう事かわからなかった.
 おばあちゃんが、もう笑ったりしない、声も出さない、息もしない、そんなふうになる事が死ぬという事なのだという事を初めて知った.死ぬという事は、が取り返しつかなくなるという事だ.
 おばあちゃんは、家で死んだ.寝てるのかなと思ってたし、また起きてくれる、起きてほしい思ったが、もう起きてきてくれなかった.享年83才.
 おばあちゃんの人生は、心配ばっかりだった.かわいそうなくらい、それは心配性とかではなく、目の前に困難なことが次から次へと起り.苦労苦労の連続の人生だったのだ.しかし、母の印象によると、おじいちゃんよりおばあちゃんの方が、根っこのところはとてもおおらかな腹のすわった人で、次から次へと起る難題をおばあちゃんなりに、ゆったりかまえて対処していたと聞いている.
 困難とは、まず私が知る限りでも、長男を戦争で亡くしている.これは想像するに、本当に二人に取ってとんでもない悲しい出来事だっただろう.しかし、このことがあったから、私の母と父が結婚することになり、私も出来たのだが.
 それと、いつごろまで粗祖母が生きていたのか知らないが、姑との中もうまくいかなかったようだ.虐められていたらしい.私の母は、自分のお婆さんを少しもいいように言わないが、虐められてたのを知ってたからなのかな..
 そして、おじいちゃんの弟がDV男でいつもおじいちゃんに喧嘩を売っては、家のものをひっくり返したり、投げ飛ばしたりして帰っていったらしい.そのことで、私の母はいつも子供ながらにびくびくして育ち、そのトラウマは85歳になった今でも昨日の事のようによみがえるというから相当ひどかったのだと思う.
 おばあちゃんは、てんかんもちだったのだが、たぶんDV被害と関係あるんじゃないかと思う.
 そんなわけで、実家の大黒柱には、その隠居のおっさんがつけたという傷がいまでも残っている.
 あるとき、おばあちゃんがてんかんを起こしたことあった.そのとき、おじいちゃんが必死でおばあちゃんの体をさすり、マッサージしながら、私に.『マサ!庭のユキノシタとってきて、塩でもんでくれ!』と言われたので、おじいちゃんの言う通り私も必死で庭のユキノシタを取ってきて、塩でもんで、おじいちゃんに渡した.おじいちゃんは、それをおばあちゃんの口に含ませ、全力で介抱した.かいあっててんかんが治まってきた.私はこのときのおじいちゃんにいたく感動したのを覚えている.
 救いはおじいちゃんが暴力をふるう人ではなく、おばあちゃんを大事にしてくれるひとだったということだ.おじいちゃんは、おばあちゃんの体をよくさすってあげていた.

 『私』が、いつか死だら、真っ先におばあちゃんのところに『おばあちゃん、ごめんなさい!』とまずは謝りにいこうと思う!それで、お詫びにNYで学んだ指圧や足裏マッサージをしてあげよう!
 どうか、おばあちゃんそれまで何年かかるかわからんけど待っててや.
 一応与えられた命、最後まで精一杯生きて、それから行く.それでもええやろか?
 『私』、おばあちゃんのこと、ほんまに好きやったんよ...
 おばあちゃんにすごーく感謝してます.
 私のこと大事にしてくれて、本当にありがとうさんでしあた、おばあちゃん!
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by swingmasa | 2010-10-29 03:51 | アイデンティティ