アイデンティティ 2 おじいちゃんの思い出

 おじいちゃんは、自分の子供や孫に囲まれ大往生して死んで行ったひとだった.
 私とおじいちゃんは、歳が80歳違ってた.
 私は、おばあちゃんと同じくおじいちゃんが大好きだった. おじいちゃんは、どこへいくにも私を一緒に連れて行ってくれたらしい.特に、おじいちゃんは、鍼灸マッサージが大好きで、その鍼灸治療によく付いていったという.
 その行く途中のことー富田林の堺筋を上がっていくと、まんじゅう屋さんがあり.私は、条件反射のようにいつも、そのまんじゅう屋さんの前で、立ち止まり、お気に入りのまんじゅうをおじいちゃんに買ってもらうまで動かなかったらしい.
 そんな事は少しも覚えていないのだけれど、何となく、金剛バスの、あの子供には大きい出入り口の階段を、よいしょと降りた時の体の振動みたいなものは、かろうじて覚えている. その後、おじいちゃんは、必ず、その振動で飛び出した脱稿をお尻の穴に入れなおし歩くのだが、その格好までまねていたらしい.これは、少し覚えているような気がする. でも、小さかったから、「脱稿がでる」なんて事がわかっていたわけではない.
 今、その道のりをたどると、結構長い道のりなのにおじいちゃんとどんなふうにして行ったのか、さっぱり覚えていない.しかも、おじいちゃんが治療してもらってる間、私は何をしていたんだろう?それも、記憶にない.ひょっとして、もう一人だれかいたのかな?おばあちゃん?
 小さい頃、交通事故にあって、激しく頭を打ちそれの前後の記憶が飛んでいる.
 野良仕事の荷を積んでいた家族のそばで歌を歌いながら、踊っていたように思う.道端で.次の週間から記憶がなく、今度気がついたら、病院のベッドで横になっていた. ネーチャンは、私が気を失っていたので、死んだと思って泣いてたらしい.
 私が物心ついてからの殆ど、おばあちゃんは、寝たきりで歩けなくなっていたので、この私が交通事故にあった時も、おばあちゃんは、寝床で私のことを心配してくれていたんだなあと思う.そういえば、おばあちゃんの寝床でよく添い寝させてもらった.
私が、保育園のときとか、小学校の時とか、いつも、帰ってきたら、おじちゃんとおばあちゃんがいてくれた.それが小学校3年でおばあちゃんが死んでしまい、おじいちゃん一人になった.
 おばあちゃんが死んでから、おじいちゃんは、めっきり元気がなくなった.
 私は、おばあちゃんのときにした後悔をニ度としたくない思い、おじいちゃんには、おばあちゃんの分まで、本当に精神誠意心残りなく言う事を聞くようにした.頼まれごとも何でも聞くようにした.
 あるとき、おじいちゃんが、舌をまっかに腫らしていたので、液体の甘い付ける薬を買ってきたら、とても喜んでもらえて、おばあちゃんにもこんなふうにしてあげればよかったのにと、また思い出したことがあった.その薬は良く効いた.思いつく事をやっていてよかった.
 もちろん、いわゆる介助、排泄の世話もした.これは、おばあちゃんの時もしていたので何と言うことはなかった.おじいちゃんは、自分で、小便も大便も本当に弱るまでしていた. 弱ってからも、ベッドの横に簡易便器をおいて、自分でやっていた. 痔持ちで、脱稿が、お尻の穴から、真っ赤に出ているのが痛そうで、かわいそうだった. 座薬を入れてあげるのが、大便をした時のおきまりだった.
 あるとき、しっかりしていたおじいちゃんが、何を思ったか、家に吊るしてある、鐘を叩くという騒動があった. これは、何のための鐘か知らないし、家にこの鐘が何故かあるのかというのも知らなかった. 認知症はでていなかったが、このときだけは、おじいちゃんの行動が理解できなかった.おじいちゃんが、この鐘を何故叩きたいと思ったのか、この鐘はそもそも、なんで家にあるのか、未だにわからない.
 それと、もうひとつ、変な事をいいだすなあと思ったことがあった.縁の下に昔焼酎漬けにした、まむしがあると言うのだ.それをとりだして、かゆいところに塗りたいと言い出した.そんなもの本当にあるのか、土間の下なんで何十年もみてなかった. 厄介だなあと思いがら、土間の下開けることになった. やはり、おじいちゃんの記憶は正しく、何十年付けてあったのか知らないが、まむしの焼酎漬けが出てきた. そして、それを塗ってみたが、聞いたのかどうか、わからない.
  とにかく、おじいちゃんは、お父さんと正反対で、漢方、薬草、民間療法が好きで、それに詳しい人だった.
 私が、そういうのにすごく興味をもっているのは、ひょっとしたら、おじいちゃんの血を引いているのかもしれない.
 健康にはとっても気を使っていた人で、いつも、寝床に食事を持っていくのだが、腹8分めがいいといって、お粥お茶碗に一杯だけで、後は漬け物か、金山時ミソ、もしくは梅干し、ときどきたいた野菜かお豆腐といった、本当に粗食だった.
 おじいちゃんは白粥を食べていたが、私も母も茶粥が大好きで、何がおいしいって、茶粥と漬け物がこの世の中で一番美味しいものだと感じている(余談).
 おじいちゃんの事で覚えている事は、日露戦争で、足を負傷し、左足の膝したのあたりが極端に細くなって、鉄砲の玉をくらった痕があったことだ.
それと、家の大黒柱によく背中をくっつけてゴリゴリやっていた.いつも、質素倹約の人で、贅沢をしているところを見た事がない.コツコツ生きる人だったんだろう.
 そんな、おじいちゃんとおばあちゃんたち、テレビがあるわけでないし、子供らの成長だけが楽しみだった時代に、最愛の息子を奪った戦争という奴を 許してはならない. 
 家は農家だったけれど、おじいちゃんもおばあちゃんも、密柑山で見たのを覚えていない.多分、一緒に行ってたんだろうが、あまりに小さくてほとんど覚えていないんだろう.
 もう今は、耕地整理で無くなってしまったが、私は、うちの密柑山の景色大が好きだった.とても美しかった.池もあった.今でもよく覚えている.私の大事な故郷の景色だ.一寸、時代劇のロケに使えそうないい感じのうつくしい風景だった.
 が、あるとき、田舎に帰ったら、耕地整理とやらで、一挙に山ごとごっそり無くなっていた. もう何処を探してもあの景色は、私の記憶の中にしかなくなってしまったのだ. アイデンティティというのは、失った記憶のかけらを拾い集め、つなげて浮かび上がってくるものなのかもしれない.
 私が、おじいちゃんとお父さんが一緒に働いているとこを見た事がないのは、父と馬が合わないので、もう全部父に預けて、自分は隠居してたのかもしれない.
 私が生まれた時ですら、おじいちゃんは、もう80才だったのだから、隠居しててもおかしくはないが、今、私の父は89才で、バリバリ、現役で農業やっている.
 ただ、当時の父は、胃潰瘍を悪化させていて、血を吐き、入退院を繰り返してしたのをしっかり覚えている.
 あるとき、父が病院から外出で帰ってきた時、まだ、退院できないので、母が泣いて、「どうして食っていったらいいんや」というような事を、夕飯の後かたずけで、雑巾で床の間をふいているとき、その床の間に雑巾を叩き付けて、泣きながら、訴えていたのを覚えている.当時は、テーブルではなく、床の間で、お膳で食べてたので、食事が終わったら、必ず、床の間も拭いていた.多分私とかが、食べ散らかしていたんだろうな.小さい時はわからなかったが、お父さんは、本当に居ずらかったろうなと思う.
 今から思うと、最もなのだが、胃潰瘍は、神経が弱ってくるもので、父も気の毒だった.誰が悪いわけでもないが、やはり、舅と婿がいっしょに暮らすのは、精神衛生に良くなかったろう.
 おじいちゃんは、おばあちゃんが死んでから、3年後に後を追うように死んでいった.  私が、小学校の6年の時だった.
 その年は、3月におじいちゃんが死んで、10月に一番上の姉が、嫁いでいったので、家はなんだか急に寂しくなった.昔は総勢10人でわいわいがやがやしていたのに、4人の核家族になってしまったのだ.10年程の間に少しずつ人が減っていった. 家の中はガラーンして、くらーい雰囲気になっていった.
 私は、おじいちゃんが、死んだときのことをよく覚えている.
 診察にきていた医師が、もう危ないので、親しい人を呼んでおいてと言われ、お母ちゃんは、ついにきたかと覚悟してたかのごとく、おばちゃんらに電話をかけて呼び集めた.
 おじいちゃんの長女、田辺(清子さん)のおばちゃんが、大阪市内から、タクシーを飛ばして帰ってきた.
 そして、玄関から入ってくるなし、わーと泣き出した.そしたら、山田(愛子さん、次女)のおばちゃんが、「まだや」といった. (後日この話はいつも笑い話になる)
 おばあちゃんのときは、眠るようにいつ息が絶えたかわからないような死に方だったが、おじいちゃんは、最後まで意識はしっかりしていた.まるで、映画でもみているような、美しい最後だった.
 家族全員を集め、最後の全力を振り絞って、私たち一人一人、抱いて、一言ずつ言ってくれた.本当に、みーんなを平等に抱き寄せて、一言ずつ言ってくれたのだった.
 一番最初に、おとうさん、「あと頼んだぞ」と言った.馬の合わなかったお父さんだが、このときばかりは、死を前にしたおじいちゃんに、とても素直な感じだった. 
 私は、何と言われたのか、それが覚えてない.多分、みんなの言う事良く効いていい子になるんやぞってな事だったと思う.ただ、はっきり、忘れる事なく、私の名前をちゃんと呼んでくれて、抱き寄せてくれたということだけで充分だった.
 そして、これが、本当に最後の別れだということがはっきりわかった.
 そこにいたみーんな、一人一人にそうしてくれた.
 そして、おじいちゃんは、最後に大きな息をひとつして、自分の人生を終わった. 
 最後の一息まで私たちにみせてくれたのだ.
 こんな見事な死に方は、ドラマでもあんまり見た事がなく、今でもおじいちゃんを大変尊敬している.とても凛々しい、最後の最後まで、本当に立派な人だった.
 享年92才.大往生だった.長生きして,世の中がこんなに変わると思わんかったって。しんどい事もいっぱいあったろうけど,最後はしあわせだったと思う。自分を納得させられる人生だったんじゃないかな。私も,自分で自分を納得させられるようになるために,今を精一杯生きる。


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by swingmasa | 2010-11-02 20:39 | アイデンティティ