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Don't Kill Concert 2024/7/15 @Dawn Center 開催決定


Don\'t Kill Concert 2024/7/15 @Dawn Center 開催決定 _d0056271_23420961.jpeg004.gifSwing MASA 公式サイト006.gifDon't Kill Concert 専用サイト
本年2024/7/15(祝)@Dawn Centerで久々にDon't Kill Concertを開催することに決定いたしました。
 出演は、もちろん、私ーSwing MASAとOsaka Jazz Womyns そしてサビーナアンサンブル、
           夜明けのさっちゃんズ、本田なお子さん(エイサー)着物リメイクファッションショー
 毎年、申し込んでいたのですが、いつも、押さえることができず、毎年7、17に使う団体って一体どんな団体やねん!と腹を立てておりました。それで、思い余って、電話したところ、あっさり取れました。こんなことなら、もっと早く電話しておけばよかったと後悔します。
 時は、帰ってこないのに。。。
そして、ネット予約は、その前に登録がいるのだということが、その時解りました。なんということでしょう!!!知らんかった!予約が完了しないのは、誰かがもう押さえているからだと思ってました。
 ところで、久しぶりに、New Yorkの自宅に帰ってきております。一週間だけ。日本の自宅に愛猫が5匹いるんで、一週間が限度です。
日本では、友人たちが、交代(今回はほとんど竹内さん)で猫世話に入ってくださり、毎日、猫の様子を写メしてくださるので、安心して
New Yorkに滞在しております。
 今回は、ルームメートが、出るというので、慌てて渡米を決めましたが、そのルームメートが新しいルームメートを決めて出て行ってくれたので、これまた、安心。今、とても、人間関係に恵まれた環境にいることを改めて感じております。
 私をめぐる人々よ!本当にありがとうございます!!!この人間関係を大事にしていきます。
これから、日本に帰って、確定申告ーこれがまた、私を悩ます苦労仕事ーレシートの整理と入力ーぞっとする!
 
 何年ぶりかのブログ!この間いろんなことがありました!最大できことは、両親の他界。。。落ち込みすぎて、ブログに戻ってこれませんでした。また、その時のこと、おいおい書きます。まずは、2024/7/15 Don't Kill Concert今年はこれに取り組みます!
 みなさん、どうぞ、聴きに来てくださいね!!!待ってます!
 スタッフ大募集なんで、手伝ってください!!!!!連絡お待ちしてます!チケット預かってくださるとうれしいです!
(まだ、チケットはできておりません)連絡ください!swingmasa@me.com



# by Swingmasa | 2024-02-03 23:43 | 今、New York

最近思うんだけど

 私は、冗句が好きなんだけど、冗談ばっかり言ってると、世の中には、本気でバカにする人がいるんだなーって事がわかってきた。冗談は、バカにしない人と一緒に楽しまなキャ、もったいないな。バカにするとうな、人とは、付き合わない事が、一番だ。皆さんもそうしてください。あなたメッセージで自分をおとしめたり、攻撃してくる人とは、付き合う事はないんじゃないでしょうか?そんな人からは、執着する事なく、避難しましょう!!!

# by Swingmasa | 2016-01-04 18:31 | アイデンティティ

父のことー続き あれから

 あれから、だいぶたっだな。続きは、やはりNew Yorkにいるときぐらいしかかけない。

 それで、父なんだげど、今、だいぶ、体調悪くなってきた。いよいよ、残された時間が、最終ラウンドにはいってきたなという感じがする。
 どう?って体調のこと聞いたら、あんまりよくないな。。しんどい。体全体がだるいっていう。
 つらい。。。身体一生懸命さする。足裏マッサージする。思いつくあらゆることを、毎日少しずつ時間をつくって、病院に通う毎日になってきた。
 今、一週間だけ、New Yorkにかえってきた。でも、父のことを思うときがきではない。早く飛んで帰りたい!ずーっと側にいたい。そして、おもいきり看病したい。

 どこまで書いたか、、、、、そうそう、両親が、New Yorkの私に会いに来るとこまでは、書いたかな。あれ何年まえになるのかな。もう、十何年も前のことになる。懐かしいな。。。
 初めて、両親が二人で、パスポートとって、New Yorkの私に会いに来た。友達へのお土産もいっぱい持って。
 二人がついたのは、 だーいぶ前だったが、私が、二人がどこについたのか見つけられず、二人は、町くだびれ、疲れはてていた。サンフランシスコで乗り換えて、国内線になっていたのを、私が、気づかずに、国際線ばかり探していたから、見つけられなかった。
 でも、二人は、私に見つけられるまで、ずーっとそこを動かず、何時間も何時間も待ってくれていた。英語もしゃべれないし、そうするしかなかったようだ。
 かわいそうなことをしたが、再会は、わたしに対する、父の怒りから始まったが、何故か、直ぐにおさまった。
 この両親が私に会いに来てくれた事件を境に私たちの関係は、大きく変わっていった。

 この事は、人にも話した事があるが、ずーっと受けていたカウンセラーを囲んで、家族カウンセリングを受けたのが、大きかった。3週間いた滞在期間中3回行った。最初の2回は、母と二人で。3回目にやっと父と一緒に3人で受ける事ができた。
 この3回目のカウンセリングが、あって本当に良かった。3回目は、お父さんに喋ってもらいましょうとカウンセラーが話をふり、父は、口を開いた。
 父はずっと、カウンセリングに行くと自分が責められるんじゃないかと思い込んでいたようだ。けれど、それは、全然違う。父の勝手な思い込み。
 口を開いた父の話は、お爺ちゃんとの舅と婿の話だった。本当にかなりのストレスだったようで、父は、私の生まれる前に一度、父の実家に帰った事があるようだ!!!そんな、話、その時まで全然知らんかった。その時、帰ったきりかえって来なかったら、私は、生まれてなかった。一番上の、ネーチャンだけか。。。。。そいでもって、田舎のお爺ちゃんとおばあちゃんとこから、離れ、都会の新世界あたり、つまり、父の生まれ故郷で、やり直ししたらしい。
 この話に、私は、びっくりたまげた。
 二番目のネーちゃんは、大阪市内育ちか。。。
そして、じーさん、ばーさんが歳いって畑でけへんようになったので、また、田舎に戻り、私が産まれたみたい。
 でも、おじーちゃんとの関係は良くなるわけでもなく、また、ストレスの日々が始まったらしいが、一緒に共同作業で野良仕事する事なくなったらしいので、前よりましだったのかな。。。
 だけど、私の小さいころ、父は、いつも、胃潰瘍を患っていて、入退院を繰り返していたので、多分身体に来るぐらい関係まずかったと思う。
 今だから、分かる事なんだけど、お爺ちゃんが、死んでから、お父さんの胃潰瘍は、ピタッと治った。
 私は、お爺ちゃんとお父さんが、仲悪そうにしてたら、いつもお爺ちゃんについていた。
 訳の分かってない子供なのになんで、お爺ちゃんだったんだろう?お爺ちゃんの方が、正しい感じがした。これってなんだろう?いや、子供ながら、お父さんが、子供に見えた。
 それと、なんか、ヘラヘラして、人を笑かす冗談ばっかりいって、どっかで、子供ながらにこの人をバカにしていたと思う。
 ところが、この家族カウンセリング受けて分かった事だが、家の中で、決定権もない父ができる事は、3枚目になって周りを笑かす事しか出来なかったようだ。
 そういう父を、本気でバカにするなんて、なんて失礼な子だったんだろう。
 私が、ダジャレとか好きなのも、父譲りかもしれない。落語とか聞くの好きだったし。

それから、私は、父という人の見方がガラーッと180度変わった。
なんて、辛抱強い人なんだろうって。うちの両親は、二人とも本当に辛抱強い人たちだ。そこの部分は、凄く尊敬している。
 つい最近までは、会いに行くたびに、満面の笑みを浮かべて、私を迎えてくれる父だった。私は、その父の笑顔を見るたびに、ほんわかした気持ちになり、救われた。
 でも今は、その父にあの笑顔がなかなか戻らない。しんどいんだ。体調悪いんだ。
 父は、自分でも、とても、健康に気を使う人で、今まで、3回癌の宣告を受け、2回手術した、そしてその度に、玄米のおかゆを自分で炊き、黒豆や、ひじきを入れて、自然食療法で読んだ食事療法をやっていた。家の中で、ひとり、自分で自分の食べる分をつくって食べていた。他の人の分もつくって。なんと、フェミニストなことか。
 私は、少しも偉そうにする事がなかった、父を尊敬している。この人の娘に生まれてきてよかったなって、心から思う。
 どうか、1日でも、長生きしてほしい。残された父との時間ー大事にするぞー!!!!!!
 
 

# by Swingmasa | 2016-01-04 18:14 | アイデンティティ

父のことー続き あれから

 あれから、だいぶたっだな。続きは、やはりNew Yorkにいるときぐらいしかかけない。

 それで、父なんだげど、今、だいぶ、体調悪くなってきた。いよいよ、残された時間が、最終ラウンドにはいってきたなという感じがする。
 どう?って体調のこと聞いたら、あんまりよくないな。。しんどい。体全体がだるいっていう。
 つらい。。。身体一生懸命さする。足裏マッサージする。思いつくあらゆることを、毎日少しずつ時間をつくって、病院に通う毎日になってきた。
 今、一週間だけ、New Yorkにかえってきた。でも、父のことを思うときがきではない。早く飛んで帰りたい!ずーっと側にいたい。そして、おもいきり看病したい。

 どこまで書いたか、、、、、そうそう、両親が、New Yorkの私に会いに来るとこまでは、書いたかな。あれ何年まえになるのかな。もう、十何年も前のことになる。懐かしいな。。。
 初めて、両親が二人で、パスポートとって、New Yorkの私に会いに来た。友達へのお土産もいっぱい持って。
 二人がついたのは、 だーいぶ前だったが、私が、二人がどこについたのか見つけられず、二人は、待ちくだびれ、疲れはてていた。サンフランシスコで乗り換えて、国内線になっていたのを、私が、気づかずに、国際線ばかり探していたから、見つけられなかった。
 でも、二人は、私に見つけられるまで、ずーっとそこを動かず、何時間も何時間も待ってくれていた。英語もしゃべれないし、そうするしかなかったようだ。
 かわいそうなことをしたが、再会は、わたしに対する、父の怒りから始まったが、何故か、直ぐにおさまった。
 この両親が私に会いに来てくれた事件を境に私たちの関係は、大きく変わっていった。

 この事は、人にも話した事があるが、ずーっと受けていたカウンセラーを囲んで、家族カウンセリングを受けたのが、大きかった。3週間いた滞在期間中3回行った。最初の2回は、母と二人で。3回目にやっと父と一緒に3人で受ける事ができた。
 この3回目のカウンセリングが、あって本当に良かった。3回目は、お父さんに喋ってもらいましょうとカウンセラーが話をふり、父は、口を開いた。
 父はずっと、カウンセリングに行くと自分が責められるんじゃないかと思い込んでいたようだ。けれど、それは、全然違う。父の勝手な思い込み。
 口を開いた父の話は、お爺ちゃんとの舅と婿の話だった。本当にかなりのストレスだったようで、父は、私の生まれる前に一度、父の実家に帰った事があるようだ!!!そんな、話、その時まで全然知らんかった。その時、帰ったきりかえって来なかったら、私は、生まれてなかった。一番上の、ネーチャンだけか。。。。。そいでもって、田舎のお爺ちゃんとおばあちゃんとこから、離れ、都会の新世界あたり、つまり、父の生まれ故郷で、やり直ししたらしい。
 この話に、私は、びっくりたまげた。
 二番目のネーちゃんは、大阪市内育ちか。。。
そして、じーさん、ばーさんが歳いって畑でけへんようになったので、また、田舎に戻り、私が産まれたみたい。
 でも、おじーちゃんとの関係は良くなるわけでもなく、また、ストレスの日々が始まったらしいが、一緒に共同作業で野良仕事する事なくなったらしいので、前よりましだったのかな。。。
 だけど、私の小さいころ、父は、いつも、胃潰瘍を患っていて、入退院を繰り返していたので、多分身体に来るぐらい関係まずかったと思う。
 今だから、分かる事なんだけど、お爺ちゃんが、死んでから、お父さんの胃潰瘍は、ピタッと治った。
 私は、お爺ちゃんとお父さんが、仲悪そうにしてたら、いつもお爺ちゃんについていた。
 訳の分かってない子供なのになんで、お爺ちゃんだったんだろう?お爺ちゃんの方が、正しい感じがした。これってなんだろう?いや、子供ながら、お父さんが、子供に見えた。
 それと、なんか、ヘラヘラして、人を笑かす冗談ばっかりいって、どっかで、子供ながらにこの人をバカにしていたと思う。
 ところが、この家族カウンセリング受けて分かった事だが、家の中で、決定権もない父ができる事は、3枚目になって周りを笑かす事しか出来なかったようだ。
 そういう父を、本気でバカにするなんて、なんて失礼な子だったんだろう。
 私が、ダジャレとか好きなのも、父譲りかもしれない。落語とか聞くの好きだったし。

それから、私は、父という人の見方がガラーッと180度変わった。
なんて、辛抱強い人なんだろうって。うちの両親は、二人とも本当に辛抱強い人たちだ。そこの部分は、凄く尊敬している。
 つい最近までは、会いに行くたびに、満面の笑みを浮かべて、私を迎えてくれる父だった。私は、その父の笑顔を見るたびに、ほんわかした気持ちになり、救われた。
 でも今は、その父にあの笑顔がなかなか戻らない。しんどいんだ。体調悪いんだ。
 父は、自分でも、とても、健康に気を使う人で、今まで、3回癌の宣告を受け、2回手術した、そしてその度に、玄米のおかゆを自分で炊き、黒豆や、ひじきを入れて、自然食療法で読んだ食事療法をやっていた。家の中で、ひとり、自分で自分の食べる分をつくって食べていた。他の人の分もつくって。なんと、フェミニストなことか。
 私は、少しも偉そうにする事がなかった、父を尊敬している。この人の娘に生まれてきてよかったなって、心から思う。
 どうか、1日でも、長生きしてほしい。残された父との時間ー大事にするぞー!!!!!!
 
 

# by Swingmasa | 2016-01-04 18:14 | アイデンティティ

face book や twitterが出来てから

 face book や twitter の使い勝手の良さから、どんどんこのブログからは、離れてきた。同時に、自分のHPに至っては、何年間もとまったまま。更新はしてない。基本的の事さえ書いてたら、そんなに、更新つったってスケジュールぐらいだし、それも、face bookの方が、使い勝手がよい。
 で、どんどん立ち寄る事が、なくなった。ここに、来なくなると長い文章を書かなくなる傾向がある気がしてきた。短く、簡単明瞭にって、常にツイート感覚。これって、発達障害の人にもわかりやすくていいかもしれない。
 今、New Yorkにいる。
 以前、私が育った、家族についてアイデンティティーとして、書いた事があったが、それを今回、更に勧めていきたい。
 やはり、父の事をしっかり書いておきたいと思った。9月4日に日本を出てきて、その際、最後に「チョットNew Yorkいってくるよ』っていいにあいにいったのだが、実家には、父も母もおらず、一目会いたかったのに、会えずに来たから、なおさら、父への思いはつのる。
 今、92歳かな?多分。 私が、この世の中で、一番愛している男性で、そりゃーもう、コルトレーンより、好きです!って、はっきり、いえる。
 そして、そんな風に感じれるまで、長生きしてくれてる父に感謝する。

でも、長い間、冷戦時代があった。
だいだい、父という人は、私の夢にいちゃもんつけるためにいる人かなとずーっと思ってた。
コミュニケーションは成立しない、会話は、喧嘩。こういう事を繰り返していると、次第に誰でもそうでしょ。離れていく。
 今、私は、自身のひきこもり癖と向き合い、ひきこもり問題に取り組んでいるが、当時私は、自分の家に、自分の居場所を見つける事が出来なかった。
 家の中ほど、しんどい場所はなかった。しかし、学校なんて、面白いもんでもなく、悩みを打ちあける友もなく、中学時代はひたすらサックスばっかり吹いていた。
 ちょうど、その頃かなぁ。小学校6年の時に、一番上の姉が嫁いで行った。それはそれは、絢爛豪華な嫁入り道具をしつらえて、持って行きやった。あの時、うちの家破産するん違うやろかと心配で心配でしかたなかった。一番上の姉もトコトン親に金遣わすセテロ女やな!そして、この豪華な、嫁入り道具は、私の番には絶対与えられないと私は読んだ。
 あの嫁入り関連のイベントほんまにめいわくやったな〜。猫チャンは、蔵に押し込められるし。かわいそやった。はよ終わったらいいのに、とどんなけ屈辱的だったか、思い出すのも嫌気がさす。
 それから、中学校になり、吹奏楽部に入ってサックスに出会い、ぼっとうし、面白くないが、サックスだけは、おもしろかった時代があり。高校か。
 二番目の姉が結婚したのは、何年だったんだろう?
 多分そのあたり、今度は、姉婿ある人が、家族の中に入ってきた。
 この人に関しては、家族全員、揚げ殿末殿、とにかく祭り上げ、何故か、この人の食卓の席は、父を差し押さえて、上座だった。
 やっと、父が登場してきた。なんで、父は、この娘婿に自分の席を譲ってまで大事にこの人をしたかというと、自分が婿養子で辛い思いをしてきたかららしい。そんなことは、この時の私には、まだわからなかった。
 私は、父のことを人間的には、何も尊敬していなかった。
 いつも、冗談ばっかり言って、人を笑かして、この人の頭の中には、そんなことくらいしかないのかなとおもっていた。

 小学校何年生の頃だったろう。あれは、3年か、4年ぐらいか。父は、大きな失敗をしたことがる。
 その大きさは、大人になってから、わかったのだが、ある父の土地にマンションを建てることを計画し、大杉建設ってところに委託した。子供ながらに覚えている。ところが、うちのマンションの建設途中で大杉建設が倒産してしまい、父が支払った費用が全て水の泡になった。父が悪いわけじゃないんだけど、父と母は、この自体をなんとかせねばならなかった。私は、この時、一緒に連れて行ってもらい、母と一緒に、屋上の給水タンクもっていかれないか、工事現場でとまってみはるというのを、親子3人でやり、アドベンチャーファミリーみたいやなーとかんじながら、めーっちゃ楽しんだ。

 父のことを書こうとしているのに、ついつい、父の事が後ろに回ってくる。
 私の父とは、そんな人なのだ。とっても控えめな男で、謙虚のかたまりだ。

父の若かった頃、、、父はどんな風にして育ったのだろうか?
うちの両親は、いとこ同士だ。父は、父の母の実家に、婿養子としてもらわれていった感じだ。
だから、お盆の墓参りの時、いつも実家にきていて、母も知ってただろう。
私は、知らない、曾おじいさんに、みかん山とか連れていってもらったりしてたみたいだ。
だけど、父の母は、病気がちで、結構寝込んでいる事が多い人だったらしい。
逆に、男の子は父を入れて3人、父はその中の2番目。父のお父さんは、よく子供たちを叱りつけてたみたいで、今でいう、DV夫だったんじゃないかな。多分、昔の事だし、父の母がいつも調子悪かったのは、夫の暴力が原因だったのではないかと思う。
 そういう意味では、私のお父さんは、十分な愛情を得て育ったわけじゃないのだなと可哀相に思う。

そして、青春時代は、戦争。満州か帰還した。父は、衛生兵だった。戦争の話はいつも聞かされて育った。
 私には、耳にタコだが、戦争の話は、とても重要で、父の話は生き証人の話だ。
 戦争の話になると、いつも、昨日の事のように蘇ってくるようだ。
何回もしてくれた話で、現地で、中国人の子供の傷口を消毒して手当てしてあげてたのかな。その子供が、自分に、お礼にと豆持ってきてくれて、その子に感動して泣いてたらしい。自分が食っていくのも大変な戦場のそんな中で、自分にお礼と言って持ってきてくれたって。中国人って心が温かいと感じたらしい。
 あと、現地の女性を犯した事あるかみたいな、単刀直入に聞いた事があったが、あ、この人は、そういう事が、出来ない人だというのが、よくわかった。つまり、お母ちゃんと結婚してからはうちのうちのお母ちゃんだけっていうか、絵で書いたような結婚感の人だ。
 まあ、どっちにしろ、私の生まれる前の話。お父さんは、新世界で育ったんだよ! 新世界のSwing MASA Jazz Houseがなんであるかって、実家は、喜志だけど、育ちは、新世界。恵美小学校出身、今宮中学校出身なんです。
 お父さんの人生を書くのは、長いな。もっっと書きたい事がある。けど、今日は、これで、寝る。
 そんな父に、電話して、New Yorkにきてみいひんかって電話した事があった。
 いつも、おかーちゃんに変わるから、いやいや、お父さんに言ってるのよ。New Yorkにきーひん?

それから、父は、一週間で、パスポートを手配し、二週間目にはNY行きのチケットを購入していた。この時も、まだまだ、私と父の会話はうまくいってなかった。。。。
だけど、父は、New Yorkにずっーと長い間私に呼ばれるのを待っていたかのように、すぐに飛んできたのだ。

つづく
 
 

# by Swingmasa | 2015-09-09 15:21 | アイデンティティ