face book や twitter の使い勝手の良さから、どんどんこのブログからは、離れてきた。同時に、自分のHPに至っては、何年間もとまったまま。更新はしてない。基本的の事さえ書いてたら、そんなに、更新つったってスケジュールぐらいだし、それも、face bookの方が、使い勝手がよい。
で、どんどん立ち寄る事が、なくなった。ここに、来なくなると長い文章を書かなくなる傾向がある気がしてきた。短く、簡単明瞭にって、常にツイート感覚。これって、発達障害の人にもわかりやすくていいかもしれない。
今、New Yorkにいる。
以前、私が育った、家族についてアイデンティティーとして、書いた事があったが、それを今回、更に勧めていきたい。
やはり、父の事をしっかり書いておきたいと思った。9月4日に日本を出てきて、その際、最後に「チョットNew Yorkいってくるよ』っていいにあいにいったのだが、実家には、父も母もおらず、一目会いたかったのに、会えずに来たから、なおさら、父への思いはつのる。
今、92歳かな?多分。 私が、この世の中で、一番愛している男性で、そりゃーもう、コルトレーンより、好きです!って、はっきり、いえる。
そして、そんな風に感じれるまで、長生きしてくれてる父に感謝する。
でも、長い間、冷戦時代があった。
だいだい、父という人は、私の夢にいちゃもんつけるためにいる人かなとずーっと思ってた。
コミュニケーションは成立しない、会話は、喧嘩。こういう事を繰り返していると、次第に誰でもそうでしょ。離れていく。
今、私は、自身のひきこもり癖と向き合い、ひきこもり問題に取り組んでいるが、当時私は、自分の家に、自分の居場所を見つける事が出来なかった。
家の中ほど、しんどい場所はなかった。しかし、学校なんて、面白いもんでもなく、悩みを打ちあける友もなく、中学時代はひたすらサックスばっかり吹いていた。
ちょうど、その頃かなぁ。小学校6年の時に、一番上の姉が嫁いで行った。それはそれは、絢爛豪華な嫁入り道具をしつらえて、持って行きやった。あの時、うちの家破産するん違うやろかと心配で心配でしかたなかった。一番上の姉もトコトン親に金遣わすセテロ女やな!そして、この豪華な、嫁入り道具は、私の番には絶対与えられないと私は読んだ。
あの嫁入り関連のイベントほんまにめいわくやったな〜。猫チャンは、蔵に押し込められるし。かわいそやった。はよ終わったらいいのに、とどんなけ屈辱的だったか、思い出すのも嫌気がさす。
それから、中学校になり、吹奏楽部に入ってサックスに出会い、ぼっとうし、面白くないが、サックスだけは、おもしろかった時代があり。高校か。
二番目の姉が結婚したのは、何年だったんだろう?
多分そのあたり、今度は、姉婿ある人が、家族の中に入ってきた。
この人に関しては、家族全員、揚げ殿末殿、とにかく祭り上げ、何故か、この人の食卓の席は、父を差し押さえて、上座だった。
やっと、父が登場してきた。なんで、父は、この娘婿に自分の席を譲ってまで大事にこの人をしたかというと、自分が婿養子で辛い思いをしてきたかららしい。そんなことは、この時の私には、まだわからなかった。
私は、父のことを人間的には、何も尊敬していなかった。
いつも、冗談ばっかり言って、人を笑かして、この人の頭の中には、そんなことくらいしかないのかなとおもっていた。
小学校何年生の頃だったろう。あれは、3年か、4年ぐらいか。父は、大きな失敗をしたことがる。
その大きさは、大人になってから、わかったのだが、ある父の土地にマンションを建てることを計画し、大杉建設ってところに委託した。子供ながらに覚えている。ところが、うちのマンションの建設途中で大杉建設が倒産してしまい、父が支払った費用が全て水の泡になった。父が悪いわけじゃないんだけど、父と母は、この自体をなんとかせねばならなかった。私は、この時、一緒に連れて行ってもらい、母と一緒に、屋上の給水タンクもっていかれないか、工事現場でとまってみはるというのを、親子3人でやり、アドベンチャーファミリーみたいやなーとかんじながら、めーっちゃ楽しんだ。
父のことを書こうとしているのに、ついつい、父の事が後ろに回ってくる。
私の父とは、そんな人なのだ。とっても控えめな男で、謙虚のかたまりだ。
父の若かった頃、、、父はどんな風にして育ったのだろうか?
うちの両親は、いとこ同士だ。父は、父の母の実家に、婿養子としてもらわれていった感じだ。
だから、お盆の墓参りの時、いつも実家にきていて、母も知ってただろう。
私は、知らない、曾おじいさんに、みかん山とか連れていってもらったりしてたみたいだ。
だけど、父の母は、病気がちで、結構寝込んでいる事が多い人だったらしい。
逆に、男の子は父を入れて3人、父はその中の2番目。父のお父さんは、よく子供たちを叱りつけてたみたいで、今でいう、DV夫だったんじゃないかな。多分、昔の事だし、父の母がいつも調子悪かったのは、夫の暴力が原因だったのではないかと思う。
そういう意味では、私のお父さんは、十分な愛情を得て育ったわけじゃないのだなと可哀相に思う。
そして、青春時代は、戦争。満州か帰還した。父は、衛生兵だった。戦争の話はいつも聞かされて育った。
私には、耳にタコだが、戦争の話は、とても重要で、父の話は生き証人の話だ。
戦争の話になると、いつも、昨日の事のように蘇ってくるようだ。
何回もしてくれた話で、現地で、中国人の子供の傷口を消毒して手当てしてあげてたのかな。その子供が、自分に、お礼にと豆持ってきてくれて、その子に感動して泣いてたらしい。自分が食っていくのも大変な戦場のそんな中で、自分にお礼と言って持ってきてくれたって。中国人って心が温かいと感じたらしい。
あと、現地の女性を犯した事あるかみたいな、単刀直入に聞いた事があったが、あ、この人は、そういう事が、出来ない人だというのが、よくわかった。つまり、お母ちゃんと結婚してからはうちのうちのお母ちゃんだけっていうか、絵で書いたような結婚感の人だ。
まあ、どっちにしろ、私の生まれる前の話。お父さんは、新世界で育ったんだよ! 新世界のSwing MASA Jazz Houseがなんであるかって、実家は、喜志だけど、育ちは、新世界。恵美小学校出身、今宮中学校出身なんです。
お父さんの人生を書くのは、長いな。もっっと書きたい事がある。けど、今日は、これで、寝る。
そんな父に、電話して、New Yorkにきてみいひんかって電話した事があった。
いつも、おかーちゃんに変わるから、いやいや、お父さんに言ってるのよ。New Yorkにきーひん?
それから、父は、一週間で、パスポートを手配し、二週間目にはNY行きのチケットを購入していた。この時も、まだまだ、私と父の会話はうまくいってなかった。。。。
だけど、父は、New Yorkにずっーと長い間私に呼ばれるのを待っていたかのように、すぐに飛んできたのだ。
つづく